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金門の概況 澎湖の概況

金門の概況

  金門県、昔は「浯洲」「仙洲」などと呼ばられ、1915年にて区画され、「溶解した純金のように固し、海門を鎮めるほどの雄大さ」という言い方から「金門」と名付けられている。金門県は福建省の東南部にある海域・厦門湾の中に位置しており、台湾海峡の西部にある。中国大陸部との距離はわずか2310メートルであり、現在区画上は福建省の泉州市に属し、実際は台湾当局によって管轄され、台湾当局の「福建省政府」である。福建高等裁判所金門分所の所在地であり、県内は金門島、小金門島(烈島)、大担島、二担島、東碇島、北碇島などの十二の島からなっている。

  厦門と共に福建東南の海玄関として、「固若金湯、雄鎮海門(難攻不落、海門を押さえる)」とよばれていたことから、「金門」と名付けられました。金門諸島は、総面積が176平方キロメートルで、福建省東南の厦門湾のなかにあり、アモイ島とは対になっており、金厦海峡の幅は5000メートルほどです。東は台湾海峡と接し、約150海里(278キロメートル)です。金門は亜熱帯モンスーン気候に属し、乾燥し、夏は暑く、冬は乾燥した寒さで、春には霧が多い、気温はアモイとよく似ています。金門民俗とミン南民俗は同類で、主に宗族のため血縁が濃く、生産は伝統的な農業・漁業で、昔からもてなしがよく、よその人とも縁を結び、土地神をまつり、風獅の神などを魔除けとする習慣を持っています。

基本情報

  • 中国語名称

    金門県

  • 面積

    151,6560平方キロメートル

  • 英語名称

    KinmenCounty

  • 人口数

    105,434人(2012年2月)

  • 別名

    金門、浯洲

  • 方言

    みん南語

  • 区画レベル

  • 気候

    亜熱帯海洋性季節風気候

  • 所属地域

    台湾地域、福建省、金馬地域

  • 著名観光地

    莒光楼、延平郡王祠、太武忠烈祠、大胆島など

  • 傘下地域

    三つの鎮、三つの郷

  • 政府所在地

    金城鎮民生路60号

  • 空港

    金門空港

  • 局番

    0823

  • 地理位置

    西は厦門島と相望み、東は台湾海峡である

  • 県花

    四季蘭

  • 県木

    パンヤ

歴史沿革

清朝及びその前

金門は古くから福建省泉州府の同安県により管轄され、1915年に(民国四年)より県レベルに区画された。信憑性のある史料によると、漢族人が金門に移住し、ここを開発し始めた。清朝の「金門誌」の記載によると、晋代において蘇、陳、呉、蔡、呂、顔合わせて六つの家庭が戦争によって金門へ避難してきたという。

803年(唐代貞元十九年)、朝廷は泉州にて五つの牧馬場を開設し、そのうちの一つは浯洲である。陳淵氏が牧馬場の役員を務め、これをもって金門島において初めての行政機構が誕生。その後、蔡、許、翁、李、張、黃、王、呂、劉、洪、林、蕭という十二の大家庭が陳淵について島に移住し、ここを開拓し始めた。これにより、陳淵は「浯洲開拓者」と後世の人々に褒められている。

金門(旧称は浯洲)塩の産地であるから、五代十国の閩王(王審知)及び元明清などの朝によって開発し、

大担島(大胆島)景観大担島(大胆島)景観

金門東半島上の金沙湾の周りに塩を晒す場所がたくさん作られている。元朝時代(1343年─1368年)、政府が中央政権を強化するために、浯洲鳳翔里十七都後学村(現在の沙美)に浯洲塩場役員(官職従七品、今の金沙国中から東埔及び栄光新村の辺りにある)と浯洲書院(現在の沙美青物市場)を設置したので、沙美が金沙湾と汶水溪及び金沙溪の交差点にあるので、元代金門地域の最高行政機関・浯洲塩場役員と浯洲書院の旧祉(元朝浯洲塩場司馬闕司令により築かれた)となっている。昔の金沙地域は金門の住民数のもっとも多い地域であり、風獅爺(獅子の模様のある石柱、家の屋根や壁のところに置く)が一番密集している場所である。(金門全島に合わせて風獅爺64体あり、金沙鎮に39体にも達し、沙美に3体)。

元朝時代、中国の沿海地域は海外との交流が非常に盛んであったため、当時の沙美(後学村)が金沙湾、浯洲塩場司、浯洲書院(明代の金山書院)、官鎮埕(埕とは塩を晒す場所である)、永安埕、浦頭埕、沙美埕などの塩の晒し場のあたりにあり、島内では元住民、塩生産労働者や書生がたくさん集まったことと水運が非常に便利であること以外に、政治家と商人も数多く集まった。後学街(今の沙美老街)はそれほど多い有利条件のもとで、人類発展の規律と歴史の形跡に従い、自然に商業と貿易市場を形成することになった。元朝時代から、金沙は金門東半島の政治・経済・文化のもっとも重要な鎮であり、中華民国の初期に至るまで依然として金門地域の経済中心とも言えよう。さらに民国時代の金沙湾金沙港は金門地域と中国大陸の航路の埠頭(中に通航していたのは金星丸)となり、国民政府(国民党の軍隊)が金門に入った上陸した場所であり、かつてはまた金東守備師及び青年軍の戦車連の駐屯地でもあった。金門がわずかの小島としても、進士43名が現れ、そのうち、文進士が40名、武進士が3名で、実に素晴らしいと言わずにはおかない。

金星輪金星輪1387年(明朝洪武二十年)明太祖朱元璋が江夏侯周徳興を福建沿海を治理させ、五衛十二所を設置した。金門守御千戸所がそのうちの一つであり、明兵部が金門を「中左所」と呼び、峰上、管澳、田浦、陳坑という四つの巡検司を管轄し、後は烈嶼巡検司を増設した。金門が福建東南海口を固く守るため、「溶解した純金のように固し、海門を鎮めるほどの雄大さ」という言い方から金門と名付けられた。

南明時代、金門は鄭成功政権により統治された。1664年(清康熙三年、南明永歴十八年)清軍が金門を攻略した後、遷界政策をとって住民を一人も残らず強制的に海岸線30華里以外に移住させた。1674年(康熙十三年、永歴二十八年)から1679年(康熙十八年、永歴三十三年)まで、鄭氏が再び金門を占領し、ここを中国内陸を攻略する軍事行動の前進基地とした。1680年(康熙十九年、永歴三十四年)清軍が二度と金門を占拠し、従来の政策に従い、福建省同安県(今の福建省厦門市同安区)に従属される。1683年(康熙二十二年、永歴三十七年)清軍が台湾を占領し、遷界で離れた住民を次々と原籍に戻らせた。

民国時代

1914年(民国三年)、清朝の地方区画制度が廃棄され、厦門は同安県から思明県(今厦門市)を独立させ、金門は思明県に所属することになる。1915年(民国四年)金門が独立し、県レベルに区画され、大金門、小金門、大嶝島、小嶝島及び周りの諸島を管轄することになる。1933年閩南事変が発生し、一時的に「中華共和国」により統治され、泉海省(後は興泉省と改称)所属された。1937年(民国二十六年)日本軍が金門を占領し、金門県政府が1945年(民国三十四年)第二次世界大戦まで暫定的に大嶝郷(今の厦門市翔安区大嶝鎮)で民家を借りて営んでいた。

1949年から今まで

1949年(民国三十八年)、中国人民解放軍が金門県の大嶝郷大嶝島、小嶝島及び付近の諸島を占領し、大嶝区を成立し、南安県に代理管轄させ、陳亦東を初代の中華人民共和国金門県県長に任命した。それから金門県は二つの県長が併存することになった。10月の古寧頭戦争が終わった後、台湾当局が県政府を金門軍隊管理区行政機関に改設した。1953年台湾当局が軍隊管理制度を終え、

莒光楼莒光楼

再び県政府を成立した。

1953年12月、中国共産党晋江専区の委員会の決定によると、梁新民を金門の県長及び南安県の副県長、劉基固を中国共産党金門県労働者委員会の書記に任命した。1955年5月、福建省人民政府が金門県人民政府を成立すると公布したが、実際は確実な権力がない。当時の県長・梁新民氏が南安県の副県長に兼任したため、行政場所は南安県の人民政府に設置された。人民政府に属する地域は金門県の大嶝島、小嶝島及び付近の諸島しかなく、大嶝区を設立した。それから、国民党と共産党の二つの「金門県政府」が対峙するようになった。中華人民共和国の金門県県長梁新民氏が、二度と金門に踏み入ったことがなかった。

1958年8月23日から10月5日まで、中華人民共和国は中東人民の反侵略戦争を応援し、ここで「八二三砲戦」が爆発した。中華人民共和国と米国が外交関係を結んだ1979年になって初めて、中国大陸の『大金門、小金門に対する砲撃を停止する声明』により、21年に渡っていた金門砲戦がようやく終止符を打った。

1971年1月、中国大陸部は金門県の所轄領土・大嶝人民公社を晋江地域の同安県に管轄させ、1980年1月、中国大陸部は金門県を晋江地域の行政機関に管轄させた。1986年1月から今までは泉州市が管轄している(実権がない)。

1995年10月18日、「金門国家公園」を成立し、台湾地域の第六の「国家公園」となり、離島にある初めての「国家公園」となり、初めての歴史文化遺産、戰爭を記念するためで、同時に自然資源も豊かに備わっている国家公園となっている。

2004年2月3日まで、金門-厦門航路が開通され、「小三通(金門・馬祖地域と中国大陸部の通航)」が開通された。

地理環境

位置

金門県は福建省の東南部に位置しており(東経118°32' 、北緯24°44')、九龍江口にあり、厦門湾口とは遥かに相望んでいる。金門は台湾海峡の中にあり、東部は基隆から198海里、東南部は潮湖から82海里、高雄から160海里、西部は厦門から約18海里離れている。福建省厦門市の東南部にある角ヨ島からわずか1.8キロ離れ、台湾島から210キロ離れている。金門島はスピンドルの形をしており、東西向きは長さ約20キロであり、南北向きの一番長いところは長さ約15.5キロである。半ばの狭いところはわずか3キロしかなく、金門本島(大金門)、烈島(小金門)、大胆、二胆、獅島、猛虎島、草島、後島、東碇島、復興島などの十二の大小異なる島からなり、総面積151.656平方キロメートルである。金門県は福建省の東南部に位置しており、台湾海峡の中にあり、東部は基隆から198海里、東南部は潮湖から82海里、高雄から160海里、西部は厦門から約18海里離れている。

地形

金門島は亜鈴の形をしており、東西向きは南北向きより広い。全県面積は150.145平方キロメートルであり(本島は134.25平方キロメートルであり、尚轄、烈島、大担、二担、鳥丘、東引、東碇、北碇などの十二の島からなる)。金門島はスピンドル(または骨)のような細長い形をしており、東西向きは比較的広く、約20キロあり、南北の一番長いところは約15.5キロあり、半ばの狭いところはわずか3キロしかない。東部に聳えている太武山は海抜253メートルである。西部は海に囲まれ、高い潮と深い海の岸側にたくさんの港口があり、船舶が停泊可能なところは30箇所余りである。

金門において主な地形は起伏のある花崗岩地形であり、一番高い峰は太武山であり(標高253メートル、その上に「莒にいる蒋公を忘れないように」と書いてある碑文がある)、その比類のない雄大さをもって島を横たわっている。近いところで見ると兜のように見えるので、「太武」と名付けられている。怪石が林立し、まるで印章のように丹念に彫刻され、別称「海の印」である。海を隔てて眺めると、神仙が横たわる姿(地べたに寝転ぶ姿)のように見えるので、海の人々によって「仙山」と呼ばれている。

太武山をおいて、東部にあるのは鵲山、鳳山、塔山、南部にあるのは双山、長安山、豊蓮山、太文山(昔の燕南山)、献台山、南磐山、西部にあるのは矛山、西它雪鄐、虎山、天摩山、金山などである。

それに対し、古寧頭区、古岡区、馬山区及び烈島区は一部の丘陵地形をおいて、主に平坦な地形が多い。赤い土に覆われる台地、 片麻状の花崗岩が海水に蝕まれて形成した各区の海岸の断面、よく育てられている砂浜、絡み込んだ砂と岩石が様々な海岸景観を作り出している。

気候

金門は亜熱帯海洋性気候であり、四月から八月にかけて降雨量が一番多く、七、八月に台風が多発したいる。東風は八ヶ月も吹き、五月から八月にかけては東南風と南風。金門島は海に囲まれているので、周りは山がなく、

港口の埠頭港口の埠頭

半ばは起伏のある丘陵地形であるため、比較的風力の強い地域となっている。夏は西南部からの海風が吹いてきて、清明節の時に濃霧をもたらすこともよくあり、県内の交通にまで影響を及んでいる。東から風力の強い東北季節風が吹いてくる。

四月から八月にかけて降雨量が一番多く、七月に台風が発生し、七月から十二月にかけては風力の比較的強い時期である。年平均気温は摂氏20.9度である。月平均気温が一番高いのは八月の28.2度であり、一番低いのは一月の12.8度である。年平均降雨量は1000ミリメートルに達していなく、四月から九月にかけては雨期であり、この時期の降雨量は年間降雨量の80%も占めている。地形の影響(金門の主な地形は花崗岩丘陵であり、貯水条件が十分備わっていない。広い川などがなく、一番長い流れは西半島の浯江川であるが、昔の河床がうっすら見えるほど涸れている状態となった。他の金沙川、後水川、前埔川、小径川、西堡川、山外川などはみな細短い小川であり、流量が非常に少ないので、涸れたものが多い。多少の貯水量があったとしても、嵐に遭うとすべて海に流れ注ぐので、雨により貯水することができない。故に、よく旱魃の多発する地域となっている。)により、水利工程がたくさんあり、川を止めて堰を作り、湖や池を掘り出し、例えば太湖、蘭湖、慈湖、双鯉湖、栄湖、陵水湖、田浦ダム、金沙ダムなどはあるが、貯水量は比較的少なく、旱魃が起こる年であると、水不足に悩むことになる。それに、観光業の振興により用水量が大幅に増加したため、水不足の問題はさらに深刻になっている。

土壌

金門の地層は主に 片麻状の花崗岩からできて、あまねくところに分布し、総面積の約半分を占めている。島の土壌は砂と裸の赤土が代表。砂層が厚く、水分や肥料保持能力は低い。赤土は土層が薄く、強い酸性があり、中に付着した腐植質が少なくなるので、耕作能力が低くなる。故に、島の農作物は比較的価値の低く、耐乾性の持つ雑穀のほうが多い。例えば、コウリャン、トウモロコシ、ラッカセイ、サツマイモなどである。海に囲まれているので、魚介類などがたくさん栖息しているので、砂浜の付近の住民はみんな深い海を営みにしている。しかし、どんな豊富な物資でもほどがある。なお、細長い地形や痩せた土壌、稀少の降雨量により農産業が発達しなく、島にはごく少量の雑穀と野菜しか生えていない。それが故に、住民たちは海を渡り異郷で生計を立て、あるいは台湾や澎湖に移住し、海外に移民した人々も少なくない。金門の華僑は東南アジアの幅広い範囲で点在し、総人数は二十万余りにも達していて、古くからも「僑郷」人々にと呼ばれている。

行政区画

金門県は三つの鎮と三つの郷を管轄し、それぞれ金城鎮、金湖鎮、金沙鎮、金寧郷、烈島郷、烏丘郷(代理管轄)である。

名称

(平方キロメートル)

区画

戸数


金城鎮

21.7076

8里

220戸

34,781

金湖鎮41.64648里163戸23,119

金沙鎮

41.0808

8里

140戸

16,503

金寧郷

29.8536

6村

143戸

20,747

烈島郷

14.8536

5村

97戸

9,715

烏丘郷

1.2000

2村

2戸

569

合計

151.6560

37村里

765戸

105,434

人口民族

浯江書院浯江書院

金門の一部の住民は先祖が東晋時代(晋元帝の建武時代)から生息し、当時は五つの非漢族の国による侵略戦争のため、蘇、陳、呉、蔡、呂、顔合わせて六つの家庭が戦争によって金門へ避難してきたという。唐代貞元十九年、福建省の軍政長官・柳冕氏が泉州に「万安牧馬場役員」を設置し、牧馬場役員・陳淵氏が陳、蔡、許、翁、李、張、黃、王、呂、劉、洪、林の十二の大家庭を率いて金門に移住した。金門庵の前の村の豊蓮山の付近で馬を放牧し、水利工程を施し、日増しに繁殖していた。陳淵は「浯洲開拓者」と後世の人々に褒められている。金門県の県誌によると、金門の現有住民は約五つの種類に分けられ、それぞれ戦争時代の遺民、泉州の豪族、隣の都市の商人や漁師、金門の辺境の防衛に当たる兵隊、結婚関係による移民なのである。

交通運輸

島内の運輸業は主に自動車道路に頼り、全島の自動車道路は台湾・澎湖・金馬地域において一番多く、運転方向は中国大陸部と同様である:運転手は左側に座り、右側通行で、左側から降りて右側から乗り、ロータリー.は左回りの運転方向である。

烏丘郷は元々莆田県に属し、金門本島とは飛行機の直行ラインがないわけで、台中港にて乗り換えなければならない。海運にかけては料羅と水頭という二つの商業港口があり、同時に水頭港口はまた小三通(金門・馬祖地域と中国大陸部の通航)のための指定港口であり、厦門と埠頭の間に定期的な航路がある。

海運

高雄-金門、金航海運会社(金門高速船)、厦門五通埠頭-金門(厦門-金門航路)、泉州石井埠頭-金門(泉州-金門航路)

航空

金門尚義空港は島の中部(やや南に偏る)にあり、滑走路は東西向きであり、長さ約3000メートル、250以上ものジェット旅客機の離陸と着陸行動ができる。旅客数が比較的少ないため、飛行機の多数は100のダブルタービンプロペラの旅客機である。台北、台中、嘉義、台南、高雄などいろいろな航空路がある。遠東、復興、瑞聯、立栄、長栄、国華、大華などの航空会社が金門航路を開設した。

バス

公共バスは30分から一時間ごとに発車し、通常は定刻にて運転する。通金城、山外、沙美などの駅でダイヤを取ることができる。タクシーの初乗り料金は70元であり、400メートルごとに5元を追加する。

民俗風情

金門の住民の家の周りには通常厄よけの飾りものがある。例えば、八卦鏡や風獅爺(獅子の模様のある石柱、家の屋根や壁のところに置く)などがある。風獅爺は村中を守るという神聖な使命を担いでいる。小金門地域の厄よけものといえば、シロアリの天敵・ある種の鶏の飾りものを使って風をよける。金門県内は水田などがなく、土地も痩せているので、生計を立てるのは難しいのである。住民たちはスケールの小さい漁業を営みにしたり、兵隊になったりすることが多い。官僚家庭をおいて住民の大多数は農民、労働者及びごく少数な商人である。こういう社会背景により生じた文化は、上品と粗野の二つの極端に走るが、庶民大衆それぞれの生活様相が依然として主流となっている。

金門の民俗風情はみん南特徴をもっている同時に、その独特さで人々を魅了する。民間の伝統祝日にかけては、大陸部の風俗、特に漳州と泉州とは完全に同様である。年に一回例の祭り行事といえば、「鎮守神を迎える」という行事がもっとも規模が大きい。島の住民は石の獅子を保護神とみなし、各村の辻などに兜と鎧をまとった雄々しい石の獅子が立ち尽くしている。獅子の前に線香などが途絶えることはなく、金門の独特な景観となっている。金沙の北側の山の後ろに18棟のみん南式の古い家屋がある。その屋根は燕の尾翼の形に築かれ、金門の民俗を代表すると同時に、中華文化の多様性を物語っている。人々に「民俗文化村」として褒められている。

景勝名跡

金門の地理行政区画は、金城、金湖、金寧、金の砂及び烈嶼などに分かれる。 金城は金門で最も早く開発された地帯である。唐朝は牧馬侯の陳渊をはじめ、12家族は金門が開墾しに来てから、引き続き南宋大儒の朱熹、明代名将の兪大猷および延平州の王鄭成功、山東王朱以海などによって全部以前こちらで足を止めたことがある。金城の史跡はとても多くて、そのうち比較的に有名である史跡は次の通りである

旧金城の明の洪武20年(西元1387年)は、朝廷は旧金城を防衛処にするようにしてから、康熙年間に至って、地方の官僚署はやっと後浦に変わるようになった。 まだ少しの遺跡、例え古道、石坊、石碑のようなものが追跡できる。

牧馬侯の祠金門は唐の徳宗(西暦800年くらい)時期で以前福建に牧馬区とすることにされてから、陳淵は牧馬の監として遣わしてきた。彼は随従および12家族を率い、金門を開発してきた。それが金門の発展にとって、基礎となると言える。

浯江書院は乾隆45年(西暦1708年)に造って、書院は朱子の祠が在中している。これは宋朝儒学の朱熹を記念するためまさにあるのである。朱熹は以前金門に講義して、燕南書院を立てたことがある。金門は朱熹の教化を受けて非常に深く影響されるようになってきた。

延平州の王祠にある夏墅崗には険しい山勢があるため、ここは以前鄭成功は練兵した重要なところである。延平の州の王祠が鄭成功を奉祀するところだ。その他関連する遺跡は、あと莒光楼、点将石、国姓井戸や万人の井戸などである。

皇帝から賜った物のうち、琼林坊:平林という旧称があり、良材が多いため、明の熹宗5年琼林という呼び名が賜ってきた。琼林村の蔡氏一族は、明朝が、中葉、河南から開封して移住して、明の熹宗5年から、平林の籍の進士蔡献臣は野蛮な異民族を撃退して功労があって、そこで賜物の名「琼林」。琼林家廟は文建会によってそれを評価して"14世の祖廟"とすることができて、台湾地区国家2級の史跡とする。

延平郡王祠延平郡王祠

魯王墓史料によると、「魯王が明太祖の九世孫で、名は朱以海である。首都が占領されたので、台州へ移住し、張国雄などが彼を紹興に迎えて魯監国に任命し、江の上で軍隊を指揮して、銭塘を守る。その後、清軍に負けて海の方向へ逃げた。鄭成功を頼りにして金門まで来て監国という官位が取られた。鄭成功は最初は非常に彼を尊重していたが、あとは海が埋められないという原因で南澳で魯王を落とした。」それに、『辞海大事記』によると、康熙元年(1662)、魯王は台湾で他界したという。二つの記載が大いに違っているので、さらに考証する必要がある。

明の末期に清軍が国を攻略した後、明思宗が首を絞めて、世の中が非常に混乱していた。南明の各王があまねく亡命した。魯王朱以海が転々としてやっと金門にやってきて七年ぐらいに長く住んでいた。時局がごく混乱していたため、他界した後は密かに金門に埋葬され、墓碑までもたてられなかった。1959年の夏、金門の「国軍」が旧金城の东古岗湖西で魯王の本当の墓を発掘した。

魯王の本当の墓が発掘されたので、出土した古籍によると従来の記載の誤謬が発見された。その記載によると、魯王が王寅康熙元年(1662年)に他界し、長年喘息にかかって痰に噎ばれ死んでしまったという。官員たちは彼を金門の東門外の青山に葬り、前は湖で、右側は山や峰がある。魯王はかつてここを来たことがあり、「漢影雲根」という四文字を題字したことがある。

邱良功墓邱良功は清仁宗時代海賊を討つ名将であり、その墓は小径村にあり、金門のもっとも完全無欠な古墓園であり、国家二級の古跡である。

邱良功墓邱良功墓

西村親子文魁西村吕氏の御霊屋は清朝雍正七年に建てられ、今までは250年もの歴史がある。御霊屋の中には「理学明賢」「文魁」「明経」などの横額がたくさんかかっており、そこで西村の文化風俗が感じられる。

金寧地域の古跡:金寧は古くから兵家の必ず争う要地であり、世界範囲内に有名な古寧頭大戦はまさにここで爆発した。

威振第は古寧頭の北山村にあり、清朝の広東水師提督・李光显の旧居である。李光显は清朝嘉庆時代に海賊蔡牽を討つ名将であり、広東・広西の総督阮元が自ら「海邦功績」と題字して李光显に贈ったことがある。彼の旧居はまた「提督庁」と呼ばられ、国家三級の古跡である。

水尾塔は水を鎮める建築であり、川や湖の畔に建てられ、水の氾濫や凶作を防ぐ。それは自らの独特さがあり、現在唯一の水尾塔は古寧頭北山村にある。金沙地域の古跡:太武山の外の辺鄙のところにある。金沙の開発は他の地域より遅くなり、金色の砂がたくさんあるそうで、神秘的な空気が漂っている。

西園製塩所金門は元代から製塩所を設立し、一番盛んであった時期は十箇所もあったが、今になっては西園製塩所しか残らない。陳禎功績アーチ、陳禎墓: 陳家は五代続きの豪族であり、朝廷でも高い官位をとっている。陳禎墓は国家二級古跡である。山後民俗文化村:清朝末期の日本に住んでいた華僑・王敬祥氏により発源した。王敬祥は商売で成功し、故郷でたくさんの建築を建てた。1975年政府側がそれらの建築を整備して民俗文物館に改築した。

地方土産

金門コウリャン酒

金門の気候条件はコウリャンの耕作に向き、当地の住民はコウリャンを酒醸造の主な原料とし、芳しい香りと濃厚な味の美酒「浯記一条根」を作り出した(台湾大学農学学部により醸造する)。

金門コウリャン酢

​金門コウリャン酒は蒸留からできているため、醸造する時は麹を作り、コウリャンを煮てから発酵させるというプロセスを厳守しなければならない。あらゆる工程は経験豊かな職人により監視しているので、煮てから発酵させるコウリャンはまた独特で濃厚な味を備えるコウリャン酢を醸造できることに気づいた。例の米酢とは味が全然異なっており、コウリャン酒をおいてもっとも独特で有名な名産品となっている。

金門貢ぎ飴

この飴は明朝においてみん南地域の貢ぎ物であり、その時は春節を迎えるために旧暦年末の時期に朝廷に名産品を献上する習慣がある。この飴は厦門の餅職人による金門に伝わってきて、数多くの漢族人餅屋によって量産し始めた。

金門包丁

金門は1949年の古寧頭戦争、1958年の八二三砲戦争など、いろいろな戦争に見舞われた。戦場で落ちた爆弾の外殻は包丁などの生活用刃具を作ることができる。金門刃物工場はすでに60年余りの歴史を持っている。呉朝煕氏は金門砲銃刃具の創始者であり、数多くの国内外の有名なメディアによりインタビューされたことがある。

金門の牛肉といったら、高坑牛肉の右に出るものはない。すでに他界した蒋経国氏は金門を訪ねる度に、必ずこの店に回ってくる。この店のビーフジャーキーはオリジナルの味、辛い味、ピーナッツの味など様々な味が備わっている。観光客は自分の好みにより選ぶことができる。塩辛い食感は実に味蕾を刺激してくれる。1パックや2パック買って親友に送り、あるいは自分で楽しむことができる。